「フン、素直に死ねばいいものを。お前が足掻いた所で、俺には攻撃一つ入れることさえ不可能だというのに。まあいい、これで終わりにしてやる」
そう言うと男は今まで目に装着していた目隠しをゆっくりとほどいた。
「ウッ!?」
男の目と俺の目が合った。と同時に、俺の身体はまるで凍り付いたかのように動けなくなった。
――金縛り……!――
「ありがたく思え。お前のような人間にこの技を使ってやるのだからな」
男の鋭い目は不気味に俺の目を捉えている。
「ついでだから教えてやろう。俺が何者かということをな。俺の名は『リリューク・ウラ・ヨルムンガンド』。影の概念を支配し、十七番目の概念の主、『影縛の躁牙』の名を冠する者」
――『概念の主』……? いったい何の事なんだ。そもそもこいつは本当に人間なのか……?――
「まあ、このような事を言ったところでお前は知るはずもないか……」
リリュークは再び、手にナイフを構えると俺に突き出した。逃げなければ。しかし身体が全く動こうとはしない。これでは逃げようにも逃げられない。
――動け、動いてくれよ!――
「無駄だ。俺の『閉塞の蛇眼』からは逃れはしない。お前の身体は、すでに筋肉が圧迫され動けない状態となっているからな。まあ、並の人間なら呼吸器官も停止して即死のはずだが、やはり『選ばれし存在』というだけあって即死とまではいかないが」
――俺が『選ばれし存在』? どういう意味だ……?――
そんなことを考えているうちに、リリュークはゆっくりと俺の元まで近づいてくる。鋭く光るナイフを構えながら。
「さあ、お喋りは終わりにするか。俺も時間がそんなに無いんでね。今こそ、お前を一瞬にして八つ裂きにして、地獄に葬ってやるよ!」
リリュークはカッと眼を見開くと、手に持つナイフを俺の首に向かって斬りつけた。
――死ぬ……!――
俺には抵抗する事さえ出来ない。このままここで死ぬしかないのか。何が俺をこの状況に追いやったのかさえも知らずに朽ち果ててしまうのか。ついさっきまで、幸せを感じていたっていうのに……。
絶望的な状況に俺は覚悟を決め、目をつぶったその瞬間。その瞬間にそれは起きた。
「ドスッ!」
俺の耳に大きな鈍い音がした。俺の首が斬られた音ではなかった。確かにちゃんと自分の首は繋がっていたからだ。じゃあ今の音は一体……?
そう思って恐る恐る目を開けると、そこには吹き飛ばされたと思われるリリュークの倒れ込んだ姿があった。
「え……!?」
一体、自分の目の前で何が起こったと言うのだろうか。リリュークはコンクリートの道路に叩き付けられており、無言で倒れていた
「お兄ちゃん、大丈夫だった?」
――え……、『お兄ちゃん』ってまさか……!――
聞き覚えのあるセリフ。思わず耳を疑った。何故ならその声の主が、まさしくさっきまでベンチで眠りこけていた凜だったのだから。
とっさに振り向いた俺の目の前には、確かに悠然と凜が立っていた。
「凜! いつの間に起きてたんだ!? それよりあいつが倒れてるのは、もしかしてお前がやったのか?」
「そんなことはいいから、お兄ちゃんは下がってて! じゃなきゃ、お兄ちゃん、殺されちゃうから」
『殺されちゃう』の言葉があまりにもリアルに俺の耳に響いた。何のジョークでも無く、まさしく俺がおかれている状況は生死を懸けた現実なのだから。そして目の前にいるのは、俺が今まで見てきた凜ではなく、全くの別人であることに気付かされた。
「でも凜は!? 凜はどうするんだよ! あいつが起き上がったら、お前、殺されちまうぞ!」
「それなら大丈夫☆」
今度はいつもの凜の無邪気な笑顔で答えた。
「大丈夫って……」
するとさっきの衝撃で陥没したコンクリートが僅かに動いた。かと思うと、倒れていたリリュークがゆっくりとその身体を起こした。
「よくもやってくれたな……、小娘!」
「あいつ、もう起きあがりやがった!?」
リリュークは再び姿勢を戻すと、ナイフを右手に構え直した。
「『概念の主』の一人である俺が、貴様のような人間の小娘ごときに、このような攻撃を受けるとは何たる恥……! 覚悟しろ、小娘! 久遠鍵士を殺す前に、まずは貴様を血祭りにあげてやる!」
リリュークは風を切るような電光石火の速さでこちらへと猛進してくる。完全にリリュークは怒りに燃えているような勢いだった。
――そうだったのね。やっぱり校長先生の言ってた事は本当だったんだ……――
凜はなにか納得したような感じで頷くと、その口を開いた。
「お兄ちゃん。まだお兄ちゃんには、どうして中学校を卒業した後、中国に留学したのか、まだ言ってなかったよね?」
こんな時に一体何の話をしているんだ、凜は? もはや絶体絶命の大ピンチだというのに。
「あ、ああ。そうだけど」
「それじゃあ教えてあげる!」
すると凜は迫り来るリリュークに向かって自分も接近した。
「何!?」
「『八極拳 六大開拳八大招式 連火極掌』!」
一瞬の出来事だった。凜が何て言ったのかは早口で分からなかったが、凜の拳がリリュークの身体へと突き刺さり、リリュークは後ろに吹き飛ばされた。その動きはまさしく、凜と一緒にやった格ゲーの世界でしか見たことの無かった、中国拳法というものだった。
「お兄ちゃん、今のうちに逃げるよ! 早く!」
「分かった!」
ここは凜の言うとおり、リリュークが倒れているうちにこの場所から逃げるのが先決だ。俺と凜は早足でこの場から逃げ出し、一目散に家へと向かった。
しかし二人が逃げたすぐ後、またしてもリリュークは起き上がった。
「チッ! 油断したな……。まさかあんな中国拳法使いの小娘が久遠鍵士の仲間だったとは。だが、まあいい。いつでもあいつらは片付けられるしな」
「その言葉、本当かしらねー」
物音も立てず、建物の影から夕方、男と話していた例の黒マントの女が現れた。
「ブリュンヒルデか。いつからそこにいた?」
「さあね。少なくともあなたがあの女の子にやられる時にはいたけどね」
女は嘲け笑うように言った。
「黙れ! あれは油断によって生じた事であり、あれぐらいの攻撃、俺なら簡単にかわせたはずだ!」
「油断も弱さのうちだと思うけどね。しかし、私も驚いたわー。あんな中国拳法使いがこんな所にいるとはね。それも意外とできそうだし」
「フン、所詮はただの人間に過ぎん。奴共々、久遠鍵士は明日までに殺してやる。貴様は手を出すなよ。奴らは俺の獲物だからな」
そう言うとリリュークは夜の闇に消えた。
「さあどうかしらね? あなたの手に負えたらの話だけどね。まあせいぜい期待してるわ」
女は皮肉っぽく言うと、彼女もまた黒のマントと共に闇夜に消えていった。
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